【鶴の湯だより NO38 2003.4.11配信より】
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

こんにちは、鶴之助です。
すっかり春爛漫ですね。お花見は行かれましたか?
桜の花と日本の春ってのはやっぱり切っても切れませんね。
桜を見ると心がとっても華やぎます。

ホームページに、松本酒造の酒蔵と御香宮を<伏見の名所スポット>
にUPしました。高瀬川沿いの松本酒造の景色はこれから菜の花が
咲いて益々きれいになりますよね。

’゜★゜’・:*:.o。.:*:・'゜☆。.:*:.o。.:*:・'゜★゜’・:*:*:.o☆。.:

■今週の露天風呂(4.15迄)

ラベンダー∩カモミールです。ラベンダーの香りで湯ラックスして下さい。

■お風呂BGM(4.15迄)

暖かくなりましたので、久々にハワイアン復活です。
リラクゼーションCD<feel 2>の癒しの音もはさんでみます。

■鶴之助独り言<御香宮と伏見義民>

先日、HPにUPする為の写真を撮りに、久々御香宮神社に出かけました。
子供の頃、この神社のお祭りの露店で、いつも輪投げやひよこ釣りをして遊んだのを思い出します。

秋祭りの度に、ひよこ釣っては家に持って帰り育てるんですが、寒さに弱く中々うまく育ちません。
たった一度だけ、電球を昼夜当てながら大切に1羽、ニワトリになるまで育てた年がありました。
でも、ある日学校から帰っていつものように鳥小屋に見にいくと、こつ然とニワトリの姿が消えていました。
なんと、爺さんが鶏鍋にして食べてしまっていたのです。

子供心に大ショックで、猛然と抗議しましたが、爺さん笑いながら「ニワトリも人間の役に立ってよろこんどる」と到底納得できないいい訳で一蹴されてしまいました。
お蔭でしばらく、玉子丼は食べられても親子丼が食べられなくなりました。

大手筋を上って、そんな事を思い出しながら神社の表門の前に立つと、何か懐かしさが込上げてきます。
生まれて初めてのお宮参りもこの神社だったせいかも知れません。

表門をくぐるとスグ左にある古ぼけた木の立札に目が留まりました。
(子供時代には全く気が付きませんでしたが)
表題に<伏見義民事蹟碑>とあり、後ろの黒い頑丈な鉄扉の奥には、たいそうな白くて高い石碑が立っています。立札の表題の後には、長々とこの碑の主人公である<伏見義民>の顛末が綴られていました。
伏見の小さなお寺の入り口に天明義民〜の墓所って石碑をよく見ますが、この話だったんだと、この時はじめて知りました。

<伏見義民顛末>

江戸時代の天明期、伏見は幕府の直轄地であり、伏見奉行小堀政方(近江国小室の大名)がこの地を治めていたが、重税や度々御用金と称して町人より私服の金を徴収する悪政を行い伏見の民を苦しめていた。(小堀政方の先祖は造園家であり茶人で有名な小堀遠州)

堪りかねた町年寄が政方の侍医の水嶋幸庵に相談、幸庵はこれを聞き入れ政方に諫言するも聞入られず、自害に追いこまれる。その後も続く悪政に苦しんだ町衆の中から、文殊九助、麹屋伝兵衛、丸屋九兵衛ら7名が立ち上がり、幕府への直訴を決意。

天明5年(1785年)前出の3名が代表として江戸へと上る。直訴の動きを察知した政方は追手を放ち、捕縛しようとするが、3名は本所深川の陽岳寺の住職照道和尚に助けられる。

伝兵衛は途中病死したが、九助と九兵衛は機会を待ち、ようやく寺社奉行松平伯耆守の江戸城より下る行列籠に訴状を持って決死の直訴に成功。
直訴は聞き入れられ、小堀政方は伏見奉行を罷免、領地没収、お家改易となった。

然し、幕府もこのような叛逆が全国的に広がるのを恐れて、発起人の町衆はもとより、関係者2百余名を処罰。義民ら7名はいずれも獄死、病死した。

明治20年これら伏見義民を偲んで、この<伏見義民顕彰碑>が御香宮内に建立された。
碑文は勝海舟が書いている。毎年5.18には義民祭も行われているそうです。
尊敬すべき伏見人がいたものです。鶴之助も郷土の英霊に敬意を込めてそっと手を合わせました。

参考)
麹屋伝兵衛の墓が榎町の宝国寺、侍医水嶋幸庵の墓が丹波橋通りの東大黒町の大栄寺にあります。いずれも浄土宗のお寺です。7名の遺髪塔は板橋鷹匠町の大黒寺にあります。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆